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小山田 信有(おやまだ のぶあり、? - 永禄8年8月20日(1565年9月14日)?)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内地方の国衆である小山田氏当主。 幼名は鶴千代丸で、通称は弥三郎。父は出羽守信有。次代の小山田信茂(左兵衛信茂、幼名は藤若丸で通称は弥五郎か)と同一人物とされていたが、近年は別人で信茂の兄にあたることが指摘されている〔弥三郎・信茂の関係をはじめ小山田氏の人物比定に関する検討は堀内亨「小山田氏の動向」『西桂町誌』(2003)〕。妻は存在したと見られるが不詳〔丸島(2013)p.134〕。 == 生涯 == === 出生から家督相続 === 小山田氏は弥三郎信有の祖父にあたる越中守信有期に甲斐守護・武田氏に従属する。父の出羽守信有は武田晴信(信玄)の信濃侵攻において活躍するが、天文19年(1550年)8月29日の信濃国衆村上義清の拠る戸石城攻めでは敗退したという〔「高白斎記」「勝山記」『山梨県史』資料編中世6上(県内記録)所載〕。 天文19年には武田宗家による柏尾山大善寺(甲州市勝沼町)の修築が行われており、同年3月に父の出羽守信有は「鶴千代丸」「藤乙丸」に二子を連れ大善寺を参詣し勧進延年舞を奉納している〔天文24年9月5日付「柏尾山造営記写」『山資』4中世1(県内文書) - 628号〕。同文書に拠れば両人は12歳の同年で、鶴千代丸は惣領(長男)と記されている点から弥三郎信有に、「藤乙丸」は信茂に比定される〔丸島(2013)、pp.132 - 133〕。これが弥三信有の初見資料となる。天文19年に12歳とされる点から両人は天文8年出生となるが、弥三郎信有は永禄5年(1562年)5月の願文で「廿三」と記しており、天文9年出生とも考えられている〔丸島(2013)、p.133〕。 父・出羽守信有は病床にあったと言われ、『勝山記』に拠れば翌天文20年11月に弥三郎信有は信濃平瀬城(長野県松本市)への番勢派遣を命じられ、被官衆を派遣している。『勝山記』に拠れば翌天文21年正月23日に出羽守信有は死去し、家督相続・元服したと考えられている。弥三郎信有は出羽守信有が病床にあった時期から当主代行を務めていたと考えられているが、当初は別の実名を名乗り、出羽守信有の没後に「信有」と改名したと考えられている〔丸島(2013)、p.133〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小山田信有 (弥三郎)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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